ボールパーク物語 1; ミラーパーク
2010年8月、ミルウォーキーのミラーパーク屋外プラザに、当時のMLBコミッショナー、アラン・ヒューバー・“バド”・セリグ氏のブロンズ像が完成し、除幕式が行われました。
ブルワーズのレジェンド、ハンク・アーロン、ロビン・ヨーント両氏のブロンズ像に仲間入りした訳ですが、球団史上最高の選手との呼び声高いヨーント氏は「このスタジアムに最初に造られるのは、当然セリグ氏のブロンズ像だと思っていました。彼なくして、ミラーパークも、ミルウォーキーのベースボールもなかったのですから」と語っています。また、アーロン氏は「バド・セリグは私のヒーローです。彼はベースボールを最高の高みに連れて行ってくれました」と賛辞を送りました。
除幕式には、彼らを含むホールオブフェイマーの他、MLBのCEOと殆ど全てのチームの要人に加え、ウィスコンシン州内のNFL、NBAチームの代表や大学のアスレチックディレクターなど、錚々たる顔ぶれが列席しました。
セリグ氏はミルウォーキーのウエストサイドに生まれ育ち、物心ついたときからベースボールが好きで、アーロンやエディー・マシューズ、ウォーレン・スパーンのいた強いミルウォーキー・ブレーブスの熱狂的なファンになりました。ブレーブスは、ナショナルリーグで最初に年間二百万人を動員し、1957年にワールドチャンピオンとなって、翌58年にもリーグを制覇しました。
ところが1960年代に入って観客は減少し、チームはアトランタに移ることになりました。悲嘆に暮れた29歳のセリグ氏は、歴史学者になる夢を断念し、ミルウォーキーにMLBチームを誘致する戦いを始めます。
1965年が、ブレーブスにとってカウンティースタジアムでの最後のシーズンとなりました。その地元最終戦を観戦中のセリグ氏のもとに、ホイールチェアーのご婦人が近づき、「あなた、バド・セリグさんですよね。」彼女は眼に涙を浮かべ、セリグ氏の腕を掴んで言いました。「必ず誘致して下さい。あなただけが頼りです。ベースボールが私にとってどれほど大切か、解りますか?」
セリグ氏は「あの時の気持を、私は決して忘れないでしょう。彼女は、ベースボールがファンとコミュニティーにとってどんなに大切かを示してくれたのです。」と除幕式のスピーチで述べています。
しかしそれから5年間、彼は誘致を試みては失敗を繰り返します。1967年のウィンターミーティングで、アメリカンリーグのエクスパンジョンチームの誘致を試みますが、ピックされたのは、カンザスシティーとシアトルでした。翌年、同様にナショナルリーグにトライしますが、エクスパンジョンチームを勝ち取ったのは、サンディエゴとモントリオールでした。その数ヶ月後、今度はシカゴ・ホワイトソックスを買収しようとしますが、叶いませんでした。
「失敗、落胆、また失敗。でも決して諦めませんでした」
そしてついに1970年3月、彼のグループが、破産したシアトル・パイロッツの買収に成功し、ミルウォーキー・ブルワーズが誕生します。
セリグオーナーとハリー・ドルトンGMの下、ブルワーズはアメリカンリーグの強豪になって行きます。1978年から82年にかけてレギュラーシーズン最多勝利を挙げ、82年にはリーグチャンピオンになりました。
1990年代を迎え、重厚長大な、フットボールと兼用の人工芝ドームスタジアムの時代から、ブルックリンのエベッツフィールド(1913-1957、ブルックリン・ドジャースのホーム)やシンシナティーのクロスリーフィールド(1912-1970、レッズのホーム)に立ち返る、ベースボール専用、屋根のない天然芝球場が好まれる時代へと移行しつつありました。また、カウンティースタジアムは老朽化していました。そこでセリグ氏は、次の大きなプロジェクトに取り組みます。ミラーパーク建設です。
除幕式でセリグ氏は、以下のように振り返ります。
「建設には、ミルウォーキーにMLBチームを取り戻すことと同じくらいの苦難が伴いました。建設に至るまでの全ての心痛と落胆を、私は覚えています。しかしここでも我々は決して諦めませんでした。夢を持ちました。」
その間、セリグ氏は9代目のMLBコミッショナーとなり、ワイルドカード、3地区フォーマット、インターリーグプレー、薬物テストプログラム、巨大メディアとの財源共有を始めとする、数々の改革を成し遂げて行きます。
数年に亘る政治的な論争を経てミラーパークは建設され、2001年4月にオープンしました。リトラクタブルルーフを採用した天然芝の、左右非対称のフィールドは、前述のヨーント氏が設計したものです。一連のホームゲームには、セリグ氏による始球式も含まれていました。
同じ月の終わり、私は、ミラーパーク一塁側内野席で、対モントリオール・エクスポス3連戦の第3戦を観戦していました。オハイオ州コロンバスへの一週間の出張を終え、日本へ帰国する同僚と別れたシカゴに宿を取り、ホワイトソックスのナイトゲームを観戦した翌日、アムトラックでミルウォーキーへ向かったのです。
ボーイズ&ガールズスクワッドによる美しいコーラスのウィスコンシン州歌。乾燥した爽やかな空気。屋根を開け放ち、日差しが跳ねるような快晴のデーゲーム。フィールドではシンプルな作戦と溌溂としたプレー。懐古調への過渡期であり、ムーバブルルーフが重厚長大さを感じさせるものの、そこには確かに、オールドボールゲームがありました。
カウンティースタジアムには左中間スタンド後方に巨大なビア樽とジョッキが設置され、ブルワーズの選手がホームランを打つと、球団マスコットのバーニー・ブルワーが側の小屋から出てきてジョッキに滑り降りていましたが、そのアトラクションは、左翼席後方のスパイラル型スライドを彼が滑り降りるという形で、ミラーパークに受け継がれていました。
試合は、ブルワーズ先発のジェイミー・ライトが好調で、エクスポス打線を2安打完封。ゲームはワンサイドでしたが、MLBを目いっぱい感じることができました。終了後には、屋根を閉める10分間のデモンストレーション。他の球場の開閉式屋根と違い、左三層・右二層に格納されたルーフパネルは扇型をしています。
2002年にはここでオールスターゲームが開催されました。チームの強化と関係者の努力で、2007年以降、観客動員数は軒並み年間三百万人を超えるという、MLB最小のメディアマーケットとして注目に値する偉業を成し遂げました。
特に近年、MLBのボールパークはどれも、たとえベースボールに詳しくない人にとっても、美しく、アトラクティブで、楽しい空間です。このシリーズでは、私がこれまで実際に訪ねたボールパークについて、その魅力と、建設の背景や歴史を記して行きます。